須恵国(すえのくに)の古墳
◎富津市の古墳
小糸川流域を中心とした,現在の富津市を中心とする地域をさす。湊川流域の天羽地区も須恵国の領域であったと思われる。 小糸川河口南部の富津市飯野地区の沖積平野の砂丘列上には内裏塚古墳,三条塚古墳,九条塚古墳,稲荷山古墳などの全長100mを超える前方後円墳が築造され,これらの内裏塚古墳群(飯野古墳群)は,須恵の首長,国造一族の墓といわれる。大半は6世紀後半以降に築造されたものと考えられる。 小糸川下流域北岸は,現在の君津市の中心市街地となっており,多くの古墳が消滅した。八重原地区では,道祖神裏古墳,八幡神社古墳が前期古墳として注目される。その中間地点に法木作2号墳が現存している。 下流域南岸では,大型,中型の前方後円墳を含む古墳群は認められず,上野台古墳群,元秋葉古墳群など小古墳群が分布している。ただ,河口付近大貫地区には例外的とも言える弁天山古墳が独立丘陵上に築造され,5世紀末の須恵国造の首長墓と考えられている。 「国造本紀」に成武天皇の世,大布日意弥命を国造に定めたとある。馬来田国造とは兄弟で,同時に国造になったと言う。
道祖神を祀った塞神神社の裏山の台地の上にある。君津市内では最古の前方後方墳で,全長は56m,前方部幅15m,高さ2.5m,後方部辺34m,高さ5mを測る。保存状態は良い。5世紀前半代の築造と考えられる。 君津駅から小糸方面行き日東バスで信楽園前下車,跨線橋上の道路に階段で登る。その右手の君津市立社会福祉センターの建物の裏側,ゲートボール場脇に古墳がある。(P. WC. なし)
塞神神社から国道127号線を渡ってすぐ,国道に平行して築造されている。後円部の3分の1を削られているが,全長86mの前方後円墳である。前方部幅41m,高さ3m,後円部径42m,高さ4mを測る。盾形の周溝がめぐり,水をたたえている。6世紀後半の築造と考えられる。(P. WC. なし)
東京湾を見下ろすことのできる「房総の五色塚古墳」ともいえる美しい古墳である。内裏塚古墳から南に約4km。 昭和50年から53年にかけて修復整備され芝生が植えられ,階段もあり簡単に古墳の上に登ることができる。 後円部墳頂に竪穴式石室があり,保存されている。現存する巨大な3枚の天井石のうち,中央の石には両側に縄掛突起という造出しがあり,房総では珍しい。 石室は建物で覆われているが,隣の公民館の職員に丁寧に訳を話すと鍵を開けてもらえる。 大貫駅下車。左に50m行くとT字路にぶつかるので右折(青堀方面から来ると左折になる。),100m行って二又道を右に,内房線の線路の下を通り最初の信号を左折すると富津市中央公民館に着く。公民館の建物の奥,内房線沿いに古墳がある。(P. あり,WC. 公民館で)
弁天山古墳 前方後円墳◆5世紀後半◆所在地 富津市小久保字弁天3017◆全長87.5m◆方位 N-157゜-W◆前方部幅54.4m 高さ7.5m◆後円部径50m 高さ7.5m◆埋葬施設 竪穴式石室(後円部墳頂)◆出土品 鉄剣2,直刀1,鏃,鋲留短甲破片,鎌?1,鹿角装刀子数個 その他「史蹟名勝天然記念物調査」5輯によれば刀剣類一括,刀1,槍1,鏃数10,刀剣破片,刀子の把手に鹿角の付着するもの数個◆備考 1927年石室調査(柴田常恵,上田三平他)1929年12月国指定史跡
弁天山古墳
弁天山古墳石室
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