成田市の古墳(成田ニュータウン・ 公津ヶ原古墳群)

 成田ニュータウンの造成に伴って保存された古墳群は、街の中のうるおいの場となっている。古墳からはるかに見える印旛沼や離着陸する飛行機に、変わりゆく成田を感じることができる。古墳の行く末を考える上でも参考となるコース。

●コース

 成田ニュータウンが建設された本地域は古来から公津ヶ原と呼ばれ、古墳が数多く所在しており、『利根川図志』に「公津の八十塚」と記されている。この公津ヶ原古墳群は成田ニュータウン造成以前には約110基を超える古墳があったといわれているが、現在は39基の古墳が都市公園として保存され、新しい街と共存している。この古墳群は、北から八代台古墳群、天王・船塚古墳群、瓢塚古墳群からなり、天王塚古墳(前方後円墳)と船塚古墳(前方後方墳)によって代表される。出土遺物は房総風土記の丘資料館に展示されている。
 また、成田ニュータウン西端の麻賀多神社(奥の宮)の東隣には、初代印波国造伊都許利命の墳墓といわれている一辺約35mの方墳(39号墳)がある。また八代地区には古墳時代の玉作りの工場跡である八代玉作遺跡が公園として保存されている。

八代台古墳群

(公津ヶ原22〜38号墳)
 JR成田駅西口の1番バス停から吾妻経由湯川車庫行きまたは循環バス(千葉交通バス)に乗車、給食センター入口で下車(運転間隔約10分)。住宅街を北へ徒歩10分で外小代公園。ここに古墳が9基保存されている。八代台古墳群は、成田ニュータウン北端の成田市玉造地区に分布する。宅地開発以前は前方後円墳1基、円墳26基、方墳4基の総計31基からなる古墳群であったが、現在は全長23mの前方後円墳1基、直径9〜15mの円墳14基、一辺11mと18mの方墳2基、計17基。

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 外小代公園は、古墳公園として整備され、西方眼下に印旛沼が眺望でき、さらに冬季には富士山も望むことができる絶景の地である。また、古墳の周囲には数十本の桜が植えられ、お花見の隠れた穴場になるのではと思われる。秋はもみじの紅葉をバックにした古墳がすばらしい。(公園内にP. WC. あり)




八代台古墳からの印旛沼


公津ヶ原35号墳

八代玉作遺跡

 外小代公園から成田ニュータウン西側外周バス道を南下すると、約8分で八代遺跡前バス停。ここから左側の住宅街を100m入ったところの右に八代玉作遺跡(玉造2丁目)がある。この遺跡は、昭和37年、東国で初めての玉作遺跡として調査され、3軒の工房跡から大量の管玉が発見された。(P. WC. なし)
 玉作遺跡から南西へ約300m離れた住宅街(玉造4丁目)の中には円墳1基、方墳2基(公津ヶ原22〜24号墳)がある。

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 玉作遺跡の調査結果から、この地域が早くから大和政権の支配下にあったこと、玉作工房集団がこの地に居住して玉類の生産に当たっていたことが判明した。


寄り道

●六角堂(宝徳寺観音堂) 成田市指定文化財。玉造中学南西の森の中にある。通称「六角堂」と呼ばれる宝形造り(六柱造り)の観音堂だけが残る。貞亨元年(1684)近江国竹田郡柏原の住人吉田又左衛門尉家次(後に新勝寺光明堂を手がけた匠)の設計、大工棟梁五良兵衛の施工によって建立された。厨子には、銅像如意輪観音の小像が安置されている。この六角堂形式を持つ仏堂は、県内ではほかに君津市附属寺大師堂だけ。


六角堂


天王塚古墳

(公津ヶ原8〜21号墳)
 天王・船塚古墳群は、成田市吾妻地区を中心に展開している古墳群。宅地開発以前は前方後円墳3基、前方後方墳1基、方墳1基、円墳27基の計32基があったが、現在は前方後円墳2基、前方後方墳1基、円墳11基が住宅の間や学校のグラウンドの中に点在している。
 天王塚古墳(公津ヶ原21号墳)は吾妻神社の西隣の森にある。全長63mで、公津ヶ原古墳群の中では最大の前方後円墳である。発掘調査が行われていないので、詳細は不明。前方部に八坂神社、後円部に浅間神社の祠がある。(P. WC. なし)

天王塚古墳(公津ヶ原21号墳) 前方後円墳◆所在地 成田市吾妻3丁目◆全長63m◆方位 ほぼNW◆前方部幅30m◆後円部径35m 高さ4.3m◆埋葬施設 不明◆出土品 埴輪(円筒)




天王塚古墳

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 天王塚には古くから「朝日さす、夕日さす日の瓢塚、漆千樽、朱千樽」という唄が残されている。


寄り道

●吾妻神社 本殿は、吾妻塚ともドウロクジンとも呼ばれる直径7m、高さ1.5mほどの古墳の上にあり、弟橘姫を祭神としている。吾妻塚は、日本武尊が東征のおりに印波の湖(印旛沼)を渡る際、かつて走水で入水した弟橘姫をしのんでゆかりの品を埋めたところといわれている。


吾妻小学校とその周辺の古墳

(公津ヶ原10〜20号墳)
吾妻ショッピングセンター前の通りを南方向に約5分で吾妻小学校。正門を
入ってグラウンドの右側に17号と18号の円墳、奥には19号と20号の円墳がある。さらに、小学校南側の団地内には10号と11号の円墳がある。10号墳は、直径33mで、公津ヶ原古墳群最大の円墳である。
 石塚古墳(公津ヶ原16号墳)は吾妻小学校南東の杉と雑木の林にある全長40mの小規模な前方後円墳である。発掘調査されていないので、具体的な内容はほとんど明らかになっていないが、埴輪片の採集された記録がある。(P. WC. なし)

石塚古墳 前方後円墳◆所在地 成田市吾妻 ◆全長40m◆方位 ほぼNW◆前方部幅15m 高さ4m◆後円部径20m 高さ4m◆埋葬施設 不明◆出土品 埴輪




吾妻小学校内の古墳

 

 

伝初代印波国造伊都許利命の墳墓

(公津ヶ原39号墳)
 一辺約35mの方墳である。南辺の中央部に凝灰質軟砂岩製の横穴式石室が開口している。また、2段築成された西辺のテラス状部分に箱式石棺が1基発見され、一部が露出している。石材は絹雲母片岩である。文久4年(1864)に大木の根元から発見された鏡と玉は、麻賀多神社に伝えられている。7世紀代に築造された古墳と考えられる。(麻賀多神社にP. WC. あり)


公津ヶ原39号墳

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 幼稚園の隣の林が伊都許利命の墳墓である。道路から上がっていくと、墳頂に伊都許利命の石碑が立っている。現在は、林に覆われているが、築造当時は印旛沼を見下ろせる、威容を誇った古墳であったろうと想像される。また、墳丘の西側の麻賀多神社の境内は、真夏でも印旛沼からのそよ風が心地よい。


寄り道

●麻賀多神社 麻賀多神社は、印旛郡内にある『麻賀多十八社』の惣社で、船形の手黒社(本社)と台方の稷山社(奥宮)の2社からなる。手黒社は応神天皇の代に八世孫である伊都許利命が霊夢を受け、杉の下から七つの玉を掘り出し、鏡とともに祀って麻賀多真大神と称した。下って七代の孫広鋤手黒彦が、推古天皇16年(608)に稷山の地に稚産霊命を移し、ここに二つの麻賀多真大神が成立。延喜18年(918)麻賀多神社に改名。


麻賀多神社

 



見どころ

●宗吾霊堂 鳴鐘山東勝寺は、真言宗豊山派の別格本山で、本尊は大日如来である。宗吾霊堂は、宗吾霊像が本尊で、元は墓所とともに東勝寺の境外仏堂であったが、大正6年、本寺を現在地に移した。宗吾御一代館は宗吾の生涯を14場面のジオラマで再現。0476−27−3131、無休、500円。


宗吾霊堂

●宗吾旧宅 木内惣五郎は、印旛郡山武郡にまたがる389カ村の総代名主で、
父理左衛門の名跡を継いで、公津村の名主となった。重税にあえぐ農民救済のため、承応元年(1652)12月20日直訴を決行し、翌年8月3日に4人の子供は斬首、本人ははりつけとなった。宝暦2年(1752)の百年忌に領主堀田相模守正亮により「宗吾道閑居士」の法号を贈られた。旧宅には「徳満院涼風道閑居士」の位牌や、古文書が保管されている。


宗吾旧宅


公津ヶ原39号墳 方墳◆7世紀◆所在地 成田市船形手黒麻賀多神社内◆墳長東西35m、南北36m、高さ5m◆埋葬施設 横穴式石室(南側中央)半地下式、玄室長さ3.8m 玄室幅1.5m 玄室高さ2.4m(いずれも推定値)凝灰質砂岩切石積◆出土品 大刀2、挂甲小札数片、鉄鏃1、※滑石製模造品、金環2、土玉2(麻賀多神社保管)◆備考 ※大形円板1、有孔円板12、勾玉型模造品2、剣型品1


船塚古墳

(公津ヶ原8号墳)
 赤坂公園内。千葉県では数少ない前方後方墳で、全長85mの印旛地域最大の古墳である。長方形に近い墳形をしている。後方部に石棺があったという伝承もあるが、発掘調査が行われていないので、詳細は不明である。また、墳丘の表面から埴輪片が採集されている。築造年代は7世紀代と考えられる。船塚古墳の隣には公津ヶ原9号(円墳)があり、開発前には船塚古墳の西南には、直径50mの大円墳や全長35mの帆立貝式の前方後円墳などがあったが、現在はその姿を見ることができない。(P. WC. あり)

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 赤坂公園は成田ニュータウンのほぼ中央にあり、園内北側の小高い丘が船塚古墳である。墳丘に上がってみると、前方後方墳の中心部のくびれが少なく、長方形に近い墳形をしている特異な古墳である。古墳周囲には遊歩道がめぐり、保存整備がゆきとどいている。
 また、赤坂公園には調整池、野外ス
テージがある。野外ステージの周辺には数十本の桜があり、絶好のお花見会場を提供している。


船塚古墳(公津ヶ原8号墳) 前方後方墳◆所在地 成田市赤坂◆全長85m◆方位 N-25゜-W◆前方部幅50m 高さ7m◆後方部幅45m 高さ7m◆埋葬施設 不明◆出土品 埴輪(円筒)◆備考 後方部に石棺が存在したという伝承もある




船塚古墳

 

 

瓢塚古墳群

(公津ヶ原1〜7号墳)
 宅地開発以前には前方後円墳1基、方墳17基、円墳23基、墳形不明1基の42基からなっていたが、現在は、ボンベルタデパートから西中学校に至る地域に、前方後円墳1基、方墳2基、円墳3基が残る。
 瓢塚古墳(公津ヶ原3号墳)は全長45mの中規模ながら、稜線が精美な前方後円墳である。前方部の高さに対し、後円部が高い墳丘形態から考えると、比較的古い段階の古墳と思われる。(P. WC. なし)


公津ヶ原5・6号墳

瓢塚古墳(公津ヶ原3号墳) 前方後円墳◆所在地 成田市加良部◆全長 45m◆方位 W◆前方部幅15m 高さ4m◆後円部 径21m 高さ6m◆備考 周溝相似形


味どころ

●ニュータウン内にレストラン食堂は多い。特に、という人は甚平そば、い志ばしなど。成田山新勝寺周辺に足を伸ばせば、お好み次第。
●甚平そば 宗吾霊堂門前の老舗。舟形の器にそばがのる。1艘では不満。2艘は必要。それ以上は各自の食欲次第。0476−26−2086
●とろじ(日本そば)細身のこしのあるそば。八代台古墳群近く、成田学園の北。0476−27−7373
●やまでん(寿司レストラン)お寿司、天プラ、メン類など。家族ずれに最適。八代台古墳群近く、成田学園の北。0476−26−6644
●い志ばし 女性の板前が心をこめて出してくれるウナギはおいしい。甚平渡しの近く。0476−26−4048


おみやげ

●成田山門前にお土産屋が並ぶ。鉄砲漬け、栗羊かんは定番。


 

見どころ

●成田山新勝寺 平安時代の天慶2年(939)に起きた平将門の乱を不動明王の力で鎮めるために創建され、新しい戦いに勝ったことにちなんで新勝寺の名が付けられたと伝えられている。成田駅から徒歩15分。


成田山新勝寺

●成田山書道美術館 成田山公園の緑の中にある美術館。主に近代日本書道家の作品が収集・展示されるが、古代中国の紀泰山銘の碑文の原拓は圧巻。0476−24−0774、月曜日、500円。


成田山書道美術館

●成田山霊光館 成田山の宗教的使命達成と地方文化向上を目的として設立された博物館。主に成田山の歴史資料と下総地方の考古・民俗・古文書などの郷土資料を展示。また、大塔1階の霊光殿では、大絵馬・書画など成田山関係の美術品を展示。0476−22−0234、月曜休館、300円。


成田山霊光館


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