小見川町の古墳(城山古墳群・富田古墳群)

 古墳というと台地上にあるというイメージがあるが、ここでは小見川周辺コースとして、利根川下流左岸の低地に立地する古墳と台地上の城山古墳群を見よう。当時この地域は、香取海の南岸に位置しており、これを治めていた豪族の勢力がしのばれる。

●コース

*バス利用の場合は、本数が少ない(4本/日)ので、千葉交通(成田営業所0476−22−0783)に問い合わせること。

 城山古墳群は、小見川町の西側の台地上にあり、県下を代表する後期古墳である城山1号墳を主墳とする計11基の古墳群である。現在、見学が可能なのは、2号墳、4号墳、13号墳の3基のみである。公園の入口には1号墳の横穴式石室が復元され、出土遺物は小見川町文化財保存館に展示されている。
 このような台地上に築かれた古墳に対し、5世紀前半から6世紀前半、沖積地である低地に築かれた大型古墳があった。富田古墳群がそれで、最大の古墳は小見川町三之分目にある三之分目大塚山古墳。

城山2号墳

(伝興世王墓)
 JR小見川駅を下車し、駅前の交差点を左折して黒部川を渡ると、前方に台地が見えてくる。この台地上にある県立小見川高校を目指す。自家用車の場合は城山公園へ。(P. WC. あり)
 2号墳は、小見川高校校庭の裏側体育館への通路脇にある。前方後円墳。杉の木に覆われているため、墳頂付近は昼間でも薄暗い。横穴式石室の天井石と考えられる石が露出している。

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 2号墳には「興世王墳墓の碑」と刻まれた石碑が建てられている。碑文によると、「承平天慶の頃皇子崇仁王征夷の使命を帯びて下総に下り……大和興世の悲願むなしく此の地に憤死す……」とある。碑文の最初に刻まれている承平という年号が平安時代に当たるので、平将門伝説の記念碑の一つである。


城山2号墳 前方後円墳 6世紀後半◆所在地 小見川町小見川字城山4753-1◆全長45m◆方位 N-85゜-W◆埋葬施設 横穴式石室?(天井石と思われるものが露出)




城山2号墳

城山4号墳

 小見川町浄水場内にあるため、入ることはできないが、金網ごしに古墳を見ることができる。
 香取郡市文化財センターの調査で、全長34mの前方後円墳であることが確認された。

城山4号墳 前方後円墳◆所在地 小見川町小見川字城山4771-2◆全長34m◆方位 N-
114゜-W◆埋葬施設 不明、前方部裾に石棺材の一部と見られる石材あり◆出土品 埴輪(円筒・朝顔形、人物)◆備考 町指定史跡(形象埴輪は、城山1号墳と近似したものが認められる)1992年香取郡市文化財センター測量調査及び確認調査




城山4号墳

城山1号墳石室(復元)

  1号墳の石室は、公園の入口に復元されている。石室内へ入ることはできないが、外から中の様子を見ることはできる(懐中電灯が必要。)。1号墳の後円部の裾に北向きに設けられていた横穴式石室をここに移築したもの。石室は長方形で、奥行4.50m。1号墳は全長68mの前方後円墳。三角縁神獣鏡をはじめ多くの副葬品が301点も検出され、それらは小見川町文化財保存館に展示されている。

城山1号墳 前方後円墳◆6世紀後半◆所在地 小見川町小見川字城山◆全長68m◆方位 N-6°-W◆前方部幅43m 高さ6.5m◆後円部径41m 高さ7m◆埋葬施設 横穴式石室(片袖式)全長6.5m 玄室長4.5m 玄室幅1.35〜1.7m 玄室高さ1.55m◆出土品 三角縁神獣鏡(中国製)、環頭太刀4、頭推太刀1、円頭太刀1など武具類、鞍金具1式、杏葉4、金銅鈴12、木芯鉄板張壷鐙1対など馬具類、玉類多数、銀中空玉50以上、針、懸金具2、埴輪(円筒、朝顔、人物、家、馬)、須恵器(TK43〜TK209)土師器◆備考 1963年丸子亘調査 小見川高校建設のため調査後削平・消滅




城山1号墳石室

城山13号墳

 後円部に対して前方部が極端に低く、北側を向く全長約40mの前方後円墳である。くびれ部はに天満宮が建てられ、墳丘にはツツジが植えられているなど残りはよくない。
 帰りは、来た道を戻る。時間の余裕があれば、公園を西に進み、台地を下りて富田古墳群をめざす。(P. WC. あり)

城山13号墳 前方後円墳◆6世紀中頃◆所在地 小見川町小見川字城山◆全長40m◆埋葬施設 横穴式石室◆備考 墳丘中段に埴輪列。後円部削平


城山13号墳

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  13号墳は未調査で、後円部が削られているが、墳丘中段に埴輪列があることが確認されているという。どのような埴輪が埋もれているのか、調査がたのしみ。
 公園内でも13号墳からの眺めは抜群で、小見川の街とその中を流れる黒部川を望むことができる。また、四季折々の花や多くの野鳥も見ることができる。墳丘にはツツジが植えられている。
 城山公園から北方向水田ごしに利根川に沿ってみえる町並みは、微高地上に立地する豊浦古墳群がある。地形を頭に入れて歩いてみよう。



寄り道

●小見川町文化財保存館 JR小見川駅から駅前の交差点を右折し、踏切を渡ってしばらく行くと、右側に小見川町役場が見えてくる。文化財保存館は、その敷地内の一番北側。出土品は県指定有形文化財。中でも、三角縁三神五獣鏡と呼ばれる銅鏡は、京都府にある椿井大塚山古墳出土の鏡と同じ鋳型から造られ、当時大和政権が地方豪族に分け与えたもの。0478−82−2122、月曜休館、無料。(P. 役場)


見どころ

●阿玉台貝塚 国指定。縄文時代中期中葉。小見川駅より小貝野行きバス良文農協前下車、徒歩10分。町立南小学校のすぐ西の台地上。
●良文貝塚 国指定。縄文時代後期。小見川駅より小貝野行きバス良文農協前下車、徒歩5分。香炉形顔面付土器(県指定有形文化財)は、縄文人の顔がよく表現されている。土器は近くの神社境内の共同利用施設に保管されている。見学したい方は前もって小見川町教育委員会(0478−82−2122)に問い合せること。


良文貝塚


富田3号墳

JR小見川駅から千葉交通の佐原粉名口行きバスに乗り、富田火ノ見下で下車すると、左側に火ノ見が見える。古墳は、そのすぐ近くの鎮守の森。全長約41mの前方後円墳であるが、遺存状態が悪く、古墳らしい形は全く認められない。前方部に熊野神社が祀られている。後円部には石棺遺材と思われる雲母片岩が2枚残されている。副葬品等は不明であるが、埴輪を伴う。6世紀中ごろ以降の築造であろうか。(P. WC. なし)

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 墳丘には桜が数本植えられている。桜の時期に花見を兼ねて訪れるのもよい。また、ここは日当たりがとても良く、冬には日だまりとなるので、お弁当を広げてのピクニック気分は、古墳歩きを一層楽しくするでしょう。ここは校庭なので、駐車場やトイレはここで借りればよいでしょう。


富田3号墳 前方後円墳◆6世紀中頃◆所在地 小見川町富田字笹下◆全長41.2m◆方位 ほぼ南東◆後円部高さ3m◆埋葬施設 不明(石棺?)◆出土品 挂甲、埴輪(円筒)◆備考 明治年間に調査歴あり




富田3号墳

 

富田1号墳

バスを降りた道路、国道356号へいったん戻り、佐原方向に5〜6分歩くと、左側に北小学校校門が見える。古墳は、この小学校の南端にある。ところどころ崩れているが、前方後円墳であることは確認できる。後円部に祠がある。全長39m、前方部がやや高い点から古墳時代後期、6世紀後半の築造と考えられる。町指定史跡で、古墳のそばに説明板がある。(P. WC. なし)

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 校庭を歩くことになる。大声で話をするなど授業のじゃまにならないように注意すること。


富田1号墳 前方後円墳◆6世紀後半◆所在地 小見川町富田字原1010◆全長39m◆方位 N-150゜-E◆前方部幅21m 高さ2.5m◆後円部径20m 高さ3m◆埋葬施設 不明◆出土品 直刀、鉄鏃、土師器 埴輪(円筒、朝顔、武人、馬、犬、鹿)◆備考 1900年発掘
富田2号墳 前方後円墳 6世紀前半◆所在地 小見川町富田字仲関◆全長48m◆方位 ほぼ南東◆前方部幅32m 高さ4.5m◆後円部径28m 高さ4.5m◆埋葬施設 箱式石棺?◆出土品 直刀、鉄鏃、挂甲小札 埴輪(円筒・朝顔)◆備考 1965年頃の仲手川改修の際、前方部から箱式石棺が出土し、その中から若干の遺物が出土したと言い伝えられる。




富田1号墳  

 

三之分目大塚山古墳

国道356号へ戻り、さらに5分くらい佐原方向へ歩くと、大塚山というバス停がある。古墳はそのバス停そば。利根川下流域最大の前方後円墳で、全長123m、5世紀前半の築造と考えられる。測量調査が実施され、周溝は楯形。現在、後円部墳頂は墓地となっていて、そこに石棺の石と思われる筑波系絹雲母片岩が立てられている。後円部には階段があり、そこから墳丘へ登ることができる。その登り口に説明板がある。(P. WC. なし)
 帰途は、大塚山バス停から小見川駅行きに乗車。

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  この辺で土地が高くなっているのは、ここだけ。前方部からは周囲360度が一望できる。


三之分目大塚山古墳


三之分目大塚山古墳墳丘実測図


大塚山古墳

三之分目大塚山古墳 前方後円墳◆5世紀前半◆所在地 小見川町三之分目字大塚◆全長123m◆方位 N-134゜-E◆前方部幅62m 高さ7.5m◆後円部径68m 高さ9.5m ◆埋葬施設 長持形組合式石棺(雲母片岩)◆出土品 埴輪 (円筒・朝顔)、土師器◆備考 埴輪は県内でも最古級。前方部後円部とも二段築成。1965年測量調査(丸子亘他) 1984年測量調査(平野功他) 1986年確認調査


見どころ

●水郷駅ふれあいの広場 改札口の隣り。縄文時代から10世紀代までの土器類がわずかであるが展示されている。喫茶店もあるので、古墳歩きで休息するにはぴったりの所。


水郷駅ふれあいの広場

 

 

古墳豆知識

◇古墳の形と時期◇
 日本の古墳は、その数の多さと種類の多様なことが、他の国には見られない特徴といえる。
 古墳の大部分は円墳であるが、他に方墳、前方後円墳、前方後方墳、上円下方墳、双方中円墳、双方中方墳、八角墳などいろいろな形の古墳がある。
 特に、前方後円墳の築造は、その地方の豪族達が大和朝廷と同盟関係を結んだり、支配された結果、全国に波及したと考えられ、その地域の首長墓を研究する上で重要である。
 古墳時代は前期、中期、後期の三期に時期区分することが普通である。
 前期古墳は、3世紀末から4世紀代の古墳をさす。台地の先端部や山の尾根などの自然地形を利用した古墳が多い。粘土槨や木炭槨などの竪穴系の埋葬施設を持ち、副葬品としては銅鏃や鉄剣、農工具のほか、銅鏡や勾玉、石釧などが多い。前期の支配者が呪術的な司祭者の性格を強く持っていたことを示している。
 中期古墳は、5世紀代の古墳をさし、この時期に全国的に拡がっていく。台地や沖積平野の低いところにも築造される。埋葬施設は、竪穴式石室や古墳の墳頂から穴を掘って直接木の棺を埋める形式(木棺直葬)となる。副葬品は武器や武具、馬具が中心となり、武人的な強力な権力を持つ支配者になったことがわかる。前方後円墳はこの時期に最大規模となり、前方部が次第に高く、先端部が広がる。
 後期古墳は、6世紀から7世紀にかけての古墳で、残された古墳の99%がこの時期のものである。今までのように首長、豪族だけでなく、「ムラ」の有力者も古墳を築くようになった。埋葬施設も横穴式石室や墳丘裾の土壙や箱式石棺となる。副葬品も日常の生活道具やわずかな武器類が中心となる。




古墳の形態
1.円墳
2.方墳
3.前方後円墳
4.帆立貝形古墳
5.前方後方墳
6.上円下方墳
7.双方中円墳
8.双方中方墳
9.八角墳
東京堂出版『古墳辞典』より引用

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