伊甚国(いじみのくに)の古墳
◎長柄町の古墳 ◎長南町の古墳
房総半島のほぼ中央部、南北に走る房総丘陵の東側にあたる地域であり、北は九十九里浜の南端に位置し、一宮川水系の大小の支流によって開析された沖積平野と台地が複雑な地理的景観を見せている。 山武郡大網白里町から長生郡市域にかけては、高塚古墳がほとんど見られないのに反して、横穴墓が多数確認されていることが特徴であろう。 茂原市付近では高塚古墳は確認されていないが、西部丘陵の南面には横穴古墳が点在する。 長南町では、長楽寺川下流域に前方後円墳1基を主墳とする18基からなる能満寺古墳群がある。その前方後円墳は、昭和22年、明治大学によって発掘調査されており、埋葬施設は県内では珍しい木炭槨で、4世紀後半の出土遺物とともに注目された。県内の前期古墳の最初の科学的発掘として記念碑的な古墳といえる。埴生川中流域に前方後円墳2基、円墳2基からなる油殿古墳群がある。能満寺古墳(前方後円墳)に続くものと考えられている。 睦沢町では、能満寺古墳の一部と浅間山古墳群、森・長楽寺古墳群など古墳時代中期から後期にかけての古墳が残されている。一宮町では瑞沢川下流域に7基の古墳からなる待山古墳群があるのみであり、円筒埴輪を出土した。 横穴墓は、豊田川流域の長柄町から茂原市国府関地区にかけて多く分布し、力丸、山崎横穴墓等が代表格であろう。一宮川本流中流域は、長生郡でも最も横穴墓の多い密集した地域である。右岸には棚毛横穴墓、又富横穴墓が、左岸台地南斜面には鴇谷東部、徳増横穴墓群がある。 夷隅川流域も高塚古墳の分布はきわめて希薄な地域であるが、上流の大多喜町には、前方後円墳1基、円墳11基からなる台古墳群があり、その中の径15mの小円墳(大宮氏旧宅裏山古墳)から半円方格帯神獣鏡、馬具などが出土している。 この白銅製の鏡は「辛亥年在銘」の鉄剣が出土した埼玉県稲荷山古墳出土の鏡と同范(同じ鋳型で造られた)鏡で注目される遺物である。6世紀前半頃の古墳であろう。 成武天皇の世に、伊己侶止直が国造となった。伊甚国造は、夷隅川及び一宮川流域を支配していた。のちに夷隅川流域は夷隅郡、一宮川流域は長生郡となる。 『日本書紀』によれば、安閑元年(534)に、この地を支配していた国造伊甚直稚子がアワビの中にある珠(真珠)を献上するのが遅くなり、その罪を逃れるため春日皇后の寝殿に逃げ隠れた。皇后は驚き失神したため、より罪が重くなり、その免罪のために伊甚国造は、大和朝廷の直轄地となる伊甚屯倉を献上したという屯倉設置の記述がある。 この屯倉設置が、高塚古墳の少ない理由と結びつけられ、朝廷の東国支配が地元の有力豪族との連合・同盟ではなく中央集権的な支配に変わったとみる説もある。
埋葬施設の変遷 古墳の埋葬施設は大きく分けて「竪穴系」のものと「横穴系」のものに分けることができる。 竪穴系のものには、竪穴式石槨、粘土槨、木棺を直接大きな墓穴に納めた木棺直葬などがある。横穴系のものには、横穴式石室、横口式石槨がある。いずれも強い地域性をもつことが多く、日本各地で特色のある埋葬施設が造られた。 5世紀中頃までは竪穴系の埋葬施設が主体的で、それ以降は横穴系の埋葬施設が中心になる。4世紀の終わりに朝鮮半島から伝わってきた横穴系の埋葬施設は、北九州地方を中心に採用され、5世紀終わり頃には畿内の大王墓にも採用されると、またたくまに、全国へと普及していった。 横穴式石室の導入はこの時期に、思想的、政治的な大きな変革があったことも背景として考えられる。竪穴系埋葬施設が、原則的には一人のための埋葬施設であるのに対して、横穴式石室は数回の使用(合葬、追葬)を予想して造られた。 また、古墳の祭祀は墳頂部から横穴式石室の入口や前庭に移るなどの変化をたどることができる。 古墳の築造は、横穴式石室が古墳祭祀の役割を終える7世紀後半まで続くが、それ以後は首長層の祭祀儀礼は古墳から氏寺と変わっていく。
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