沼南町の古墳(手賀沼南岸の古墳)

 手賀沼の南岸、東葛地区最古、4世紀の北ノ作古墳群を中心としたコース。古墳に立つと手賀沼の昔と今を考えている自分に気付く。大きな公園があるので家族みんなで楽しめる。

●コース

*バスの便が悪いので、自動車を利用して見学するほうがよい。

 北ノ作1・2号墳は、手賀沼を一望できる標高20m程の台地上にある。手賀沼より南北に入り込んだ谷の東側に位置するが、西に対面する台地には前方後円墳1基、方墳4基、円墳79基などからなる片山古墳群がある。

北ノ作1・2号墳

 柏駅東口で東武バス手賀の丘公園行きに乗り、終点の手賀の丘公園で下車し、300m程で手賀の丘公園へ。柏駅東口から東武バス布瀬・手賀行きで、手賀農協前で下車(先の信号を左折し、500m程進むと公園入口)する方法もある。
 手賀の丘公園から右手に公園駐車場(自動車の場合はここを利用)、運動場を見て坂道を下る。坂を下り切ってしばらく行くと、道が大きく左にカーブする。この進行方向の正面に細い道があるので、広い道路を曲がらずに直進し、この道に入る。角に「勢至菩薩」の石碑がある小さな十字路を直進して、坂を上ると変則な三叉路に出る。これを左折し、蛇行する道を道なりに進むと、左手に手賀沼湖畔霊園が見えてくる。霊園駐車場の右手奥に、北ノ作古墳群がある(標識あり)。公園から徒歩で約10分。
 1号墳は、径約17mのやや不整な円墳。2号墳は1号墳の約20m南西にある全長30mの前方後円墳。千葉県文化財センターの調査では、2基とも前方後円墳の可能性があるとのこと。(P. WC.なし)

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 東葛地域では、最も古い時期の古墳。どんな人々が、どんな気持ちで、こんなに細長い舌状台地の先端にこれだけの古墳を造ったのだろうか。
 手賀沼の南には北ノ作古墳群。沼の北側で、これに匹敵する規模の古墳は水神山古墳。両者には、およそ100年ぐらいのずれがあるとのこと。この「ずれ」が、何によって生まれたものなのかを考えてみるのも面白い。


北ノ作1号墳 円墳◆4世紀後半◆所在地 沼南町片山◆全長17m 高さ2m◆埋葬施設 粘土槨◆全長2.6m 幅0.75m◆出土品 直刀1、鉄剣1、刀子、鉄斧2、釶1、銅鏃1、鉄鏃3、勾玉、耳環、土師器◆備考 不整形な円墳1969年調査
北ノ作2号墳 前方後円墳◆4世紀後半◆所在地 沼南町片山◆全長30m◆方位 N-100°-W◆前方部幅5m 高さ2m◆後円部径15m  高さ3m◆埋葬施設 粘土槨2(主軸に直交) 1号(全長5.5m 幅0.7m; 出土品 管玉2) 2号(全長1.3m 幅0.5m; 出土品 管玉1、土師器)


 

北ノ作1号墳


北ノ作2号墳


北ノ作2号墳墳丘実測図

 

片山古墳群

 分布図によると前方後円墳1基、方墳4基、円墳79基、上円下方墳1基がある。
 公園の入り口に向かって右側(公園事務所の裏手)に、座布団をあちこちに置いたような高まりがある。背の高いものは、古墳ではなく、塚の可能性もある。

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 上円下方墳と言うが、これはやっぱり古墳でなく、塚という感じ。
 まだまだ自然がたっぷりと残っている地域なので、自動車で出かけたなら、「片山古墳群」を懐に抱く手賀の丘公園での散策・森林浴と合わせて、ゆっくりと時間をかけて歩いてみるとよい。付近に食事のできる施設はないので、お弁当を持参し、手賀の丘公園で食べましょう。(公園内にP. WC. あり)




片山古墳群 

オッコシ古墳群

 公園の正面左手。木製の大きな展望台の手前に5基(?)ある。片山古墳群に比べてマウンドが低い。方形周溝墓ではないかともいわれている。

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 片山古墳群、オッコシ古墳群ともに全く何の説明、案内もない。特に、オッコシは地面が少し膨れている程度です。木製の展望台は、樹木に遮られて手賀沼の眺望が十分とはいえないが、階段がたくさんあって上り下りするだけでもとても楽しい。


 

オッコシ古墳群

 

●寄り道●


手賀の丘公園

手賀の丘公園 フィールド・アスレチック、テニス、バーベキュー。また、どんぐりの家(公園事務所)には小さな郷土資料室、植物に関する図書室などがある。0471−91−6233。入園自由(施設は有料)

古墳豆知識

◇古墳時代と東国の古墳◇
大和地方(今の奈良県、大阪府の東部、京都府の南部の一部)を中心に、前方後円墳をはじめとする大形の盛土墳丘をもつ墓の作られた時代を古墳時代と呼ぶ。
およそ、西暦4世紀から7世紀(A.D. 300年〜600年)の頃のことである。 この時代は、墳墓の作り、副葬品(死者と一緒に墓に納めた品物)、墳丘でのまつりなど、いずれもていねいで、手厚く行われた(厚葬と言う。)。
日本歴史の時代区分としては大和時代に入り、国の政治組織が徐々に整備され、文化的にも後の日本文化の基礎が築かれた時代であると言われる。
大和政権はしだいにその勢力範囲を日本中に拡げてゆくが、各地の豪族と同盟を結び、統合してゆく様子は大和の風習である古墳(特に前方後円墳)の築造を目安としてその経過を知ることができる。
関東地方には中部山地と太平洋沿岸、つまり、山(東山道)と海(東海道)の2つのルートを通り、古墳文化が伝わったと考えられている。

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