市原市姉崎の古墳(養老川下流域左岸の古墳)

古代、上海上国の奥津城として造営された姉崎古墳群。後には上総国の祭祀の中心となった地で、現在も海上さんが宮司を務める式内社姉崎神社も古墳群の中に荘厳に建っている。

●コース

コース

 養老川流域には、総数300有余の古墳が分布しており、姉崎古墳群は養老川下流左岸、JR姉ヶ崎駅より南東に広がる沖積地と標高30〜40mの台地上に立地する古墳群。
 古墳群は、4世紀後半から約300年間造られ、8基の前方後方墳と10数基の円墳からなるが、7世紀後半、前方後方墳の六孫王原古墳が造られ造営が終息する。
 姉ヶ崎駅東口より、バスの便も良く(平日3本/1時間、土、日、祭日2本/1時間)ゆっくり散策しながら古墳巡りができる。バスは午前中は帝京大病院行、午後は青葉台グリーンタウン経由で帝京大病院と方向が変わる。(小湊バス TEL0436−61−1029)

堰頭古墳

 午前中の場合は、姉ヶ崎駅、1番バス停より帝京大病院行きに乗車、第二青葉台バス停下車。道なりに約500mで、青葉台グリーンタウンバス停につく。バス停からは、前方にある階段通路を登って、T字路に出たら右折約100mで、右側林の中にこんもりとした部分が見えてくる。全長46mの前方後方墳、7世紀初頭の築造。保存状況良好だが林のなかで足もとが悪いため、見学には注意。(P. WC. なし)

memo

 林の中に入ったところ古墳のまわりがゴミ捨て場と化していました。すべての古墳の整備はむずかしいと思いますが、ゴミを捨てない心の教育が必要なのかなと思いました。



堰頭古墳
堰頭古墳

堰頭古墳 前方後円墳◆7世紀初頭◆所在地 市原市姉崎字青葉台◆全長46m◆埋葬施設 不明◆備考 別称小谷古墳

六孫王原古墳

 堰頭古墳を右に見ながら約100mで左折、マンションの間を通りT字路に来たら左折、約100mで左前方のこんもりとした林のなかに「六孫王原古墳」が見えてくる。全長45mの前方後方墳。一部発掘され、金銅製馬具から7世紀後半の築造と考えられている。古墳から出土した金銅装馬具としては最も新しいもの。(P. WC. なし)

memo

古墳時代終末期、千葉県では大型方墳や円墳が築造されるなか、養老川流域では前方後方墳が築造されるようになる。なぜ前方後方墳が築造されるようになったのか不明だが、古墳時代を流れる畿内的なものへの在地勢力の抵抗と考えてみるのも一考か。姉崎古墳群中最後に築造された古墳。古墳の位置をみると、古い方が海岸に近い位置、新しいものがやや奥まった位置にある。これは何を意味しているのでしょうか。


六孫王原古墳 前方後方墳◆7世紀後半◆所在地 市原市姉崎字六孫王原◆全長45.5m◆方位 N-105゜-W◆前方部幅25m 高さ1m◆後方部幅26.8m 高さ2.5m◆埋葬施設 横穴式石室(後方部南側)、切石積◆出土品 鉄刀1、刀子片1、砥石、金銅製鏡板、金銅製留金具、須恵器大甕 ◆備考 周溝長方形 1970年発掘調査(早大考古学研究室中村恵次他)


 

六孫王原古墳
六孫王原古墳

実測図
六孫王原古墳墳丘実測図

 

鶴窪古墳

 マンション入口まで戻り、広い道路を左に進む。約600mで道路左側にこんもりとした「鶴窪古墳」が見える。全長60mの前方後円墳、後円部北側が一部破損しているが、ほぼ原形を残している。別名「蓮ヶ窪古墳」。6世紀後半の築造と考えられる。(P. WC. なし) 

memo

鶴窪古墳までの道は、台地の一番高いところを通っていて、向かって右側は見晴らしが良く、途中にはコーヒーショップ“タントタント”本当はテラスのある喫茶店が似合う場所ですが、窓越しに見える景色もいいですよ。
鶴窪古墳の手前約150m右側には、原1、2号墳(前方後円墳)がありましたが、すでになく、現在は見ることができません。


鶴窪古墳(連ヶ窪古墳) 前方後円墳◆6世紀後半◆所在地 市原市姉崎字鶴窪299−5◆全長60m◆方位 ほぼW◆前方部高さ4m 高さ4m◆埋葬施設 不明◆出土品 円筒埴輪◆備考 1981年確認調査


 

実測図
鶴窪古墳墳丘実測図

鶴窪古墳
鶴窪古墳

 

釈迦山古墳

 鶴窪古墳から道なりに進み約400m、姉崎神社の鳥居をくぐったところで左側の小道に入ると、左側に小高い山の様に見えるのが「釈迦山古墳」。又、反対側の出光山王社宅「行止まり」看板の右側の細い道からも行ける。全長86mの前方後円墳、原形をよく保っており5世紀前半の築造と考えられる。後円部と前方部の比高差が4mもあるため、近くで見ると異様に大きく見え、これにより古式古墳であることがわかる。(P. WC. なし)

memo

以前「釈迦山古墳」前方約100mの台地上に全長69mの前方後円墳「山王山古墳」が見られたが、開発に先だった調査後消滅した。
後円部墳頂の長さ9mの粘土槨の中から金銅製柄頭を持つ銀装環頭太刀や金銅製冠が見つかっている。4世紀代の築造と考えられる。出土品は市原市埋蔵文化財調査センターに展示されている。


釈迦山古墳 前方後円墳◆4世紀◆所在地 市原市姉崎字三王山◆全長86m◆方位 ほぼW◆前方部高さ6m◆後円部高さ10m◆1995年 千葉県文化財センター調査



実測図
釈迦山古墳墳丘実測図

釈迦山古墳
釈迦山古墳

●寄り道●
姉崎神社 姉崎神社

姉崎神社…日本武尊が東征のおり、海路の安全を祈って志那闘弁命(風神)を祀ったのが始まりといい、延喜式神名帳にも名を残す。天慶3年(940年)には、平将門の乱平定の祈願が行われ、治承4年(1180年)には、源頼朝が平氏追討の祈願をし、以来流鏑馬の神事が行われるようになったと伝えられている。祭神の志那闘弁命は、伝えによれば、約3km北にある島穴神社に祀られている志那都比古命の妃で、夫の帰りを待ったが、いつまでたっても帰らなかった。待つと松の読みが同じなので松を嫌ったといい、広い境内には松は一本もない。またこの辺りでは、正月に門松を飾らないしきたりになっているという。

天神山古墳

姉崎神社の鳥居から先ほど歩いて来た道を100m程戻り、十字路を左に下る坂道に入る(ぼうき坂といわれる)。約80m程下りたところで今度は右に上る坂道に入る。約300m、写真館の前を通り宝蔵寺というお寺(外観からは寺と判らないので注意)の手前を左に入り、道なりに進むと、前方に「天神山古墳」が見える。全長119mの前方後円墳、ほぼ原形を保ち残りもよい。後円部と前方部の比高差が5mある古墳の形態から、4世紀後半の築造と考えられている。(P. WC. なし)

memo

海岸平野を望む台地の縁辺部に築かれた大きな古墳で、首長墓としてまた権力の象徴として威容を誇っていたのでしょう。現在では木立に囲まれ、ひっそりと人々の生活を見守っているように感じます。


姉崎天神山古墳(台の大塚古墳) 前方後円墳 ◆4世紀後半◆所在地 市原市姉崎2489◆全長119m◆方位 N-88゜-W◆前方部幅57m 高さ9m◆後円部径67m 高さ14m◆埋葬施設 不明◆出土品 不明◆備考 前方部二段、後円部三段築成 1973年県指定 1974年測量調査(明大)



実測図
天神山古墳墳丘実測図

天神山古墳
天神山古墳

天神山古墳を望む
天神山古墳を望む

二子塚古墳

先ほどの道を約200m程戻り、コンクリート塀の角にある十字路を右折、やや急な坂道を約200m。ミラーのあるT字路で右折、道なりに進んでバス通りを横断する(車の往来が多いので、必ず信号のある場所を横断すること)。そのままバス通りに沿って右に約100m進み、小道を左折、真直ぐ道なりに進んでいくと、約300mで「二子塚古墳」の横に出る。ただし、湿地帯があるため、手前の十字路で左折し、湿地帯に沿って約150m程進んで十字路を右折。用水路の橋を渡って直ぐ行った右、広場の奥に前方部が見えてくる。「二子塚古墳」は全長103mの前方後円墳、ほぼ原形を保っている。(P. WC. なし)
 姉ヶ崎駅へは二子塚古墳前方部前の広場から先程の道に出て左に進む。明神小学校の前を通り、T字路で一方通行を左折し、内田医院前の信号を渡って右に進む(ここまで約400m)。T字路の信号を左折し、約200m先の姉崎交差点を渡り、ケンタッキーフライドチキンの前を通って約100m進み姉ヶ崎駅入口交差点を右折すると姉ヶ崎駅に戻る。

memo

前方部及び後円部の埋葬施設(木棺直葬)はともにすでに失われている。副葬品の中で石枕(伝、後円部出土)は国の重要文化財に指定されています。内部主体、副葬品などから、5世紀中頃の築造と考えられています。住宅が墳丘のすぐ近くまで建て込んでいるため築造当時の姿を見ることが出来ませんが、当時周りには盾形周溝(幅22〜40m)が廻り、復原すると周溝を含めて全長160mの壮大な古墳となります。天神山古墳とともに、当時の姉崎地域首長の大きな力が感じられます。


姉崎二子塚古墳 前方後円墳◆5世紀中頃◆所在地 市原市姉崎字二タ子(二子塚)◆全長103m◆方位 N-138゜-W◆前方部幅52m 高さ8.5m◆後円部径50m 高さ9.5m◆埋葬施設 木棺直葬(前方部、後円部墳頂)2基◆出土品 後円部主体 鏡3、硬玉勾玉7、滑石大形勾玉1、滑石管玉4、琥珀棗玉5、ガラス小玉300余、金銅製魚鱗文金具、刀子5、有孔円板、臼玉3、鉄刀破片2、鉾1、前方部主体、メノウ勾玉1、銀製垂耳飾、鉄刀2、鉾2、鉄鏃◆出土品 蟠地文鏡、変形文鏡、四神十二支鏡、硬玉勾玉7、滑石大形勾玉1、滑石管玉4、琥珀棗玉5、メノウ勾玉1、ガラス小玉300以上、金銅製魚鱗文金具、銀製垂耳飾、石製模造品、鉄刀4、鉄鉾3、鉄鏃、短甲、衝角付胄、挂甲小札、轡、石枕、立花、埴輪(円筒、朝顔)◆備考 周溝楯形


  
二子塚古墳
二子塚古墳

実測図
二子塚古墳墳丘実測図


●味どころ●

天神山古墳から下がってきてバス通りに出たところで、すぐ左に“みちのくラーメン”、右100mに“しげ寿司”があります。二子塚古墳からは、JR姉ヶ崎駅付近までもどらないと、味どころがありません。

古墳豆知識

◇古墳の名称とその意味◇
古墳は、古代の墳墓と言う意味であるが、古ければいつの時代の墓でも古墳と呼ぶわけではない。古墳時代の首長、豪族の墓だけを古墳と呼ぶのは、古墳が単なる墓にとどまらず、被葬者の生前の力と権威を誇示する政治的記念碑であったからである。また、古墳は次の代の首長、豪族が支配権と神的な権威を受け継ぐ、墓前での政権交代の儀式の場でもあった。

「市原市国分寺台の古墳」のページへ

はじめに・凡例


印波国の古墳

我孫子市の古墳
沼南町の古墳
栄町の古墳
成田市の古墳
佐倉市の古墳


下海上国の古墳
神崎町・佐原市西部の古墳
佐原市の古墳
小見川町の古墳
多古町の古墳


武社国の古墳
松尾町・横芝町の古墳
成東町・山武町の古墳
成東町の古墳


伊甚国の古墳
長柄町の古墳
長南町の古墳


長狭国の古墳


阿波国の古墳


須恵国の古墳
富津市の古墳


馬来田国の古墳
君津市久留里の古墳
木更津市の古墳
袖ヶ浦市の古墳


上海上国の古墳
市原市姉崎の古墳
市原市国分寺台の古墳


菊麻国
市原市北部の古墳


千葉国の古墳
千葉市の古墳
市川市・松戸市の古墳


あとがき


古墳を歩く前に