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かんぽう武射 No.17 ◎平成11年11月5日発行

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古墳文化と芝山 一5一

■古墳文化と芝山 一5一
澁谷興平(本館館外研究員)

横穴墓の営みと房総
 5世紀後半頃に営まれたとされる福岡県行橋市竹並墓群を好例として、北九州とその周辺部においてほぼ同時期頃に初現をみている。それから西日本に普及をみる。間もなく東海地方を経て関東に伝わる。房総において営みが始まるのは、富津市新宿5号墓や勝浦市守谷長網7号墓の資料例から、前方後円墳の営みが終焉を迎える6世紀後半頃と推定されている。以後の経過は、概して営みの最盛期が7世紀中葉前後頃、そして、8世紀に入っても続いて営まれる傾向があったらしい。
 さて、千葉県においては、明治7年の『千葉新聞輯録5』に「市原市瀬又明星アナ横穴記事」なる探訪の記事がうかがえる。研究活動の面からの初出する報告は、明治19年の『東京人類学会報告』第9号に長柄郡押日横穴群中の1基について簡単な略図を描いて内部を紹介されている。多分、これが調査の始まりであろう。
 次に、千葉県内の主な分布域を概観してみよう。西上総では矢那川・小糸川・湊川を中心とした地域、東上総では夷隅川・一宮川を中心とした地域で、この両分布域において特に密集する傾向を示している。一方、下総では飯岡や銚子の丘陵斜面あるいは利根川の南岸地帯に散在している。古墳の分布が希薄な安房では、平久里川や丸山川を中心とした地域に分布している。因みに、千葉県教育委員会から平成2年に刊行された『千葉県所在古墳詳細分布調査報告書』に記載される横穴墓の総数は4129基を認める。この芝山町では4基、隣の成東町では1基、近隣の東金市や大網白里町では各118基の存在が知られている。この中で、昭和59年に大網白里町に所在する瑞穂横穴墓43基について発掘調査が行なわれている。資料をもとに内部の構造について、簡単に説明しましょう。凝灰砂岩系の丘陵斜面に穿たれた横穴墓の内部は、「羨道と玄室」とに分かれる。これは横穴式石室の説明で使われる名称と同じ意味である。玄室には、平らな無壇式のものと高壇式の形態があり、高い壇の造りの場合は2m前後を測る例もある。床面や箱状に刳(えぐ)られた棺内部から、被葬人骨が検出された時には複数認められる。また、天井の形態については、一般的にはアーチ形やドーム形、そして家形などもうかがえる。
 7世紀に入ってからの房総では、高塚古墳の築造が衰退する傾向を示す中で、東上総や西上総地域において横穴墓の営みが旺盛する模様となり、その濃密な分布は全国的な視野から覗いても歴然とした事実である。この特異な状態こそ上総地方においては、“横穴墓の時代”が到来したといっても過言ではなさそうな感じに思えてならない。

終末期大型方墳と円墳の営み
 古墳に樹立される埴輪の姿が消え、前方後円墳の築造が停止するのが6世紀末頃である。7世紀代に入ると、畿内では大阪府南河内郡太子町磯長の用明天皇陵古墳(一辺65m)や同町山田の推古天皇陵古墳(一辺60m)など、新たに大型の方墳が出現する。また、奈良県天理市の塚穴山古墳や同県北葛飾郡広陵町の牧野古墳のように、径60mを有する大型の円墳も現われる。いずれも、巨石を使った横穴式石室が営まれ、概して「終末期古墳」と称している。この頃、東国の様子はどうであっただろうか。上毛野地方(群馬県)では、愛宕山古墳や宝塔山古墳にうかがえる一辺60mを有する方墳の営みがある。また、大型の円墳としては栃木県下都賀郡の壬生車塚古墳の営みがある。これと同じ時期、ここ房総では日本最大の方墳といわれる岩屋古墳が営まれている。所在するところは印旛郡栄町龍角寺、印旛沼北岸の標高約30mの台地上である。規模は一辺80m、高さ12.4m、墳丘は三段築成、南側に2基の横穴式石室が営まれている。その近くに、房総における最古の寺院として位置する龍角寺があり、奈良時代前期の造営と推定されている。この両者は年代的に接近する様子であることから、大型方墳と初期等院との関連が早くから研究者の間で注目されている。
 ところで、岩屋古墳の規模には及ばないものの、芝山町に隣接する成東町板附の台地上に駄ノ塚古墳が営まれている。一辺60m、高さ10、m周溝が二重に巡り、墳丘南側に全長8m ほどの砂岩の切石を使った複室構造の横穴式石室である。昭和61年と同62年の発掘調査によって、石室よりメノウ製の勾玉や金銅製歩揺付金具などの馬具類が発見されている。年代については、周溝内から出土した須恵器が6世紀末ないし7世紀初頭を示すもので、これによって東国の終末期方墳の初現にあたる存在であると推定されている。
 終末期方墳に詳しい安藤鴻基氏によれば、全国で総計173基、そのうち千葉県では67基の営みが認められ、主に7世紀代にわたって営まれることになる。そして、同世紀の後半から末頃には、君津市の九十九坊廃寺址・木更津市の大寺廃寺址・成東町の真行寺廃寺址などの初期古代寺院の営みが浮上する。そこで、俄かに終末期方墳の被葬者との関連が囁かれている。

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