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かんぽう武射 No.6 ◎平成5年5月15日発行

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芝山町の旧石器時代礫

埴輪からかいま見た古代 ―馬 その1―

■芝山町の旧石器時代
千葉県文化財センター 技師 新田浩三

 旧石器時代は、今からおよそ1万年以上昔の土器をまだ使っていない時代のことです。芝山町で現在までに発見されている旧石器時代の遺跡数は23もあります

◇旧石器時代の集落のようす◇
 旧石器時代の集落のようすは、遺跡から発見される石器や礫、あるいは、穴の分布しているあり方からいろいろな人が推定していますが、今のところはっきりとはわかっていません。なぜなら、旧石器時代がおよそ1万年以上昔の時代なので、木・骨・皮などが溶けてなくなってしまっているので、どのような服を着ていたのか・どのような動物を狩猟して食べていたのか・どのような家に住んでいたのかを推定する材料が少ないからです。少ない推定材料から旧石器時代の集落のようすを想像したものが下の図です。
 すまいは、地面に細い柱を建てて、軽くて簡単な上屋を用いたと思われます。今のテントのようなすまいを想像してもらえばいいですね。すまいの骨組には木、象や鹿などの骨や牙が、屋根には動物の皮や木の皮や草などが使われたと思われます。調理・暖房・照明施設である炉はすまいの近くにあったようです。

◇移動と狩猟・採集◇
 旧石器時代人は動物を狩猟したり、植物を採集する生活をしていたと考えられています。狩猟・採集をするためには、集落を移動して生活していました。けれども、あてどなく移動するようなことはしていなかったようです。集落の周辺の地形・地理を熟知したうえで、動物が季節と習性に応じて、その土地でどう生息しているかを知ったうえで移動し狩猟していたようです。また、植物の実る季節など自然のサイクルにあわせて移動し採集していたようです。

◇自然に適応した生活◇
 石器の石材を獲得した方法においても、あてどなく移動したのではないという証拠がみつかっています。
 芝山町にある芝山西ノ台遺跡、香山新田中横堀遺跡(空港No.7遺跡)、遠野台・長津遺跡から出土した約2万年前の石器は、ほとんどすべて遠隔地(おそらく東北地方の日本海側)を原産地とする珪質頁岩という石材を使って作られていました。このことは、芝山町の位置する下総台地が良質な石材が乏しい地域であることから、石材を遠く離れた原産地まで直接採取しに行ったか、あるいは、石材を交換によって得たことを意味します。この石器の特徴は、大型の石刃(縦に長くて形の整った石片)を遺跡に持ち込んで、これを素材にしてさらに小型の石器を作るというものでした。これは、貴重な石材をとことんまで利用するという石材消費のあり方を示しています。
 旧石器時代の人たちが必要とする石材を遠隔地まで求めて移動し、貴重な資源である石材を究極までに消費するというあり方は、狩猟・採集の生活と同様に、どこに行けばどのような資源があり、資源を補給できない地域ではどのように資源を消費すれば効率的なのかを習熟していたことをあらわしています。これを自然に適応した生活と評価することができるのではないでしょうか。また、物資に恵まれた現在のわれわれの生活においても、大いに参考にできることではないでしょうか(過去は現在・未来の鏡なのだから)。

■埴輪からかいま見た古代

―馬 その1―

 動物埴輪の種類は意外に少ない。馬、牛、鹿、猪、犬、猿、鳥、魚などであろうか。前回述べた鳥形埴輪にしても鶏、水鳥、鷹ぐらいのもので、もっと様々な鳥が古墳時代にもいただろうにと思うが多くない。
 その動物埴輪の中で、出土数の大半を占めるのは馬形埴輪である。しかも儀式用に飾りたてた飾り馬と呼ぶ物がほとんどで、騎乗の馬や裸馬はきわめて少ないのが特徴である。
 馬形埴輪と言えば、間違いではあるが埴輪の起源説話となっている例の日本書紀の垂仁天皇32年秋7月の条に「ノミノスクネ(※1)が埴(はにつち)で人・馬及び種々の物の形を造作った」と言う記述と雄略天皇9年秋7月の条の「田辺史伯孫(たなべのふひとはくそん)が娘の出産祝いの帰りに応神天皇陵の下で赤毛の駿馬に乗った人にあい、頼んで自分の乗っていた馬と取り換えてもらい、喜んで帰ったが、明朝、厩にいってみるとその馬は埴輪の馬になっており、応神天皇陵の土馬の列に昨夜取り換えた自分の馬がつながれていた」という換え馬の記述を想起させる。
 また、3世紀の北九州周辺の事を記述したと思われる「魏志」倭人伝には、「その地は牛馬なし」と記載されているが、実はその記述は、全国の繩文時代の貝塚(銚子市余山貝塚など)から馬や牛の骨が出土している事から間違いではあるが、繩文時代や弥生時代にはその数は少なかったのかもしれない。
 小林行雄博士は、日本古代の乗馬の風習を論ずる為に、日本書紀30巻の中に135ヶ所の馬に関する記述を数えあげている。
 以上の事から考えると、在来の馬は古代日本にもいたものの、馬が人間の文化に深く係わるようになったのは、どうも古墳時代(中期以降)からのようである。
 古代文化の中での馬の役割は、どんな馬がいたのかという動物学的な側面と共に興味深いものである。
 次回は、埴輪にみる馬具の装着と古墳祭祀における馬の役割を考えてみたい。

※1

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