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かんぽう武射 No.1 ◎平成2年8月1日発行

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低地遺跡を見直そう!(1)

展示収蔵品の中から ―睦沢町 江沢コレクション―

埴輪からかいま見た古代 ―埴輪の起源 その1―

■低地遺跡を見直そう!(1)

1.芝山町の遺跡
 芝山町は栗山川の支流である高谷川と木戸川、その支谷によって形成された町と言ってよかろう。台地上のいたるところに土器散布地や古墳が認められる。土器散布地は我々祖先の集落の跡であり、古墳は古墳時代の豪族の墳墓である。これらの遺跡は道路建設や宅地造成などに先立って発掘調査されたものも多く、芝山町の歴史を知る手掛かりとなっている。
 このような台地上の遺跡のほかに低地に形成された遺跡にも注目する必要がある。
 昭和30年代の初め頃、高谷川に魚釣りに赴いていた原田昌亮氏は近くの用水溝で、朱と黒に彩色された木片を発見した。直ちに、これは慶応大学考古学研究室に運ばれた。その重要性を認識した同研究室では、出土地点の発掘調査を実施することとなった。その結果、それは繩文時代後期の加曽利B式を主とし、堀之内式を従とした泥炭層から出土したものであり、繩文時代後期に属する『櫛』であると結論付けられた。また、丸木舟1叟、櫂を含む木製品も併せて発掘した。この丸木舟は時期のはっきりしたものであることから、他の丸木舟を比較検討する上で貴重な資料となっている。

2.低地遺跡とは
 低地遺跡とは低地に形成された遺跡を総称するが、形成状況から2つに分けることができる。
 先に紹介したように木製品の出土する低湿地遺跡がその一つである。これは水田や河川周辺の湿地の場合が多く、泥炭層が形成され、そこから遺物が出土するのである。泥炭は木製品等遺物を真空パックして、酸化から防ぎ、往時のままの姿を我々に見せてくれるのである。高谷川や木戸川流域の水田地帯の低湿地から木製品が出土するのは、このためである。もちろん、圧倒的に多いのは土器である。
 右表は九十九里地域の低地遺跡の所在を示したものであるが、その大部分は丸木舟の出土地点であって、低湿地遺跡から検出したものである。栗山川流域からは他の地域に比べ集中的に丸木舟が出土し、『丸木舟銀座』の観もある。
 一方、台地の裾部や河川に沿って発達する河岸段丘等砂地の水分の少ない所から集落やその他生活の痕跡を検出することがある。
 九十九里平野の形成については諸説あるが、繩文時代後期以降海岸線が後退していく際に砂丘と低湿地や沼地が交互に形成されたものと考えられている。現在、畑地や道路となっているところが、当時、砂丘あるいは砂堤であり、ここには土器の散布が認められ、集落が営まれていたと考えられる。
 八日市場駅の南東方向にある八日市場市平木遺跡は、発掘調査の結果、平安時代の集落が検出され、土器も数多く出土した。中でも墨書土器(『御厨』)は注目されるものである。この遺跡は九十九里平野の砂堤上に形成されたものであり、低地遺跡の典型と言える。
 九十九里地域における低地遺跡の発掘調査は過去数箇所で実施されたが、これは組織的に調査されたものであり、低地遺跡の歴史・文化を確認するに十分なものであった。当地域の低地遺跡研究のあらたな第一歩とも言えるものである。 (以下次号)

■展示収蔵品の中から

―睦沢町 江沢コレクション― 
睦沢町歴史民俗資料館 学芸員 鈴木庄一

 通称「踊る埴輪」と呼ばれる夷隅郡大原町三門古墳から出土したこの埴輪は、昭和57年に睦沢町立歴史民俗資料館の開館とともに睦沢町佐貫の郷土史家江沢半氏のコレクションの考古資料の一部として寄託を受けたものです。これらの考古資料は、長生郡や夷隅郡をはじめ、千葉県全域にわたる多種、多様なものがあり、東上総地域の古代史研究に多大な影響を与えているものです。
 この「踊る埴輪」ですが、大原町新田の藍野精一氏が外房線の開通で消滅する三門古墳から発掘したもので、その後、江沢半氏が整理、修復し現在の形として残されました。昭和初期、考古学を志して両氏とも積極的に調査を行っていたと聞きます。したがって、現存する江沢半氏のコレクションでは、藍野精一氏の大いなる協力を得たものと思われます。房総半島南部の埴輪の分布を考えますと、類例が少ないこともあり、文化的、歴史的に貴重な資料となっています。
 この埴輪をはじめとする考古資料を当資料館に保管をし、今後とも藍野精一氏、江沢半氏の功績を称えながら教育的な利用に供したいと考えます。幸い今年、当館は増築をして「ふるさと博物館」となります。この中で常設展示として紹介をする予定です。

■埴輪からかいま見た古代

―埴輪の起源 その1―

 よく入館者の方から、埴輪は「いけにえ」の代わりに樹てられたのですかという質問を受けることがある。
 この質問は、『日本書紀』の垂仁天皇32年秋7月に皇后のヒバスヒメノミコト(※1)が亡くなったので、ノミノスクネ(※2)が出雲から100人の土師部を呼んで粘土によって人や馬を造らせ墓の周りにたて、今までの殉死に代えたと言う埴輪起源説話の物語からきている。
 この時にたてた粘土細工を埴輪または、立物と言い埴輪の言葉の初現である。埴とは、粘土のことで、埴輪は、いわば粘土の輪と言う意味であろうか。
 ただ、この物語を考古学的、歴史的にみると埴輪の起源は、人や馬を現す形象埴輪ではなく円筒埴輪であることから、日本書紀が編さんされた奈良時代に皇室の葬儀を受け持つ土師部がじぶんたちの社会的地位の高さを誇る為に祖先であるノミノスクネ※2のこの話を作ったのだと考えられている。
 しかし、考古学的には誤りだが、この物語には殉死の事と言い、埴輪の始まりと言い、何か考古学だけでは割り切れない古代人の気持ちを感じることが出来る。
 このコラムは、そんな埴輪に込められた古代人の気持ちや感情を埴輪という古墳時代人の残してくれたものをとおして、今後も探って行く欄としたい。
 なお、ノミノスクネ※2は、相撲の元祖でもあり、その子孫土師古人は、奈良時代の終わりに姓を菅原に改め、文学を家業とし、そのひ孫が、菅原道真である。

(※1)日葉酢媛命 (※2)野見宿禰

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