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かんぽう武射 No.4 ◎平成4年11月10日発行
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■千葉に来た「山の国」の祭のかたち
中野修秀
今年の企画展は、「山武郡の石の文化」というテ一マで開かれています。旧石器時代から歴史時代までという時間の幅が広いものですが、私は繩文時代を受け持ちました。干葉県らしさというか、ここ山武郡の土地柄というものを、「石」を通してどこまで語れたでしょうか。
これから、繩文時代の千葉県に遠く山梨県方面の祭のかたちが伝わっているということについてお話をさせていただきます。
◇「山の国」の祭のかたち 一丸石一 ◇
山梨県から長野県にかけて、繩文時代前期(今から5500年前)ごろ、直径15cm位の丸石と石棒を、ムラの広場に立ちならべた祭のかたちができ上がりました。これは繩文時代中期(今から4500年前)になると最もさかんになるだけでなく、広場から住居(すまい)の中に置かれるようになります。現在の神だなというと少し大げさですが、「家族の守り神」といったところでしょうか。丸石と丸棒に加えて有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)などとセットになることも多いようです。このかたちは繩文時代後期後半(今から3200年前)あたりから変化し、配石として再びムラの広場(お祭広場)へ立ちならぶようになりました。
さて、丸石の分布ですが、繩文時代中期の例で見るかぎリ現在の山梨県を中心に、長野県でも八ケ岳のふもとや諏訪盆地あたりまでで、ここ以外ではあまり見られないようです。このあたりは、曽利式土器という独特の土器文化の中心地と考えられているだけでなく、南アルプスなどの山々がそびえる文字どおりの「山の国」です。ここで生まれた「丸石の祭」は、数千年の風雪をたえて今日まで続いています。それは形こそ道祖神に変わっていますが、地元の人々は「丸石神様」と呼んで信仰しているのです。
◇千葉県での調査例◇
ここからようやく千葉のお話になります。今から7年前に、成田市長田雉子ヶ原遺跡の調査が行われ、第100号住居跡から不思議な遺物が出土しました。調査を担当された喜多圭介氏(印旛郡市文化財センター)は、山梨県での調査経験からすぐに丸石であると判断し、これが県内調査例の第1号になったのでした。しかもこの時点で、石棒・石皿・鍔付土器とセットで出土することに注意され、曽利式文化の影響を指摘されている点でも先見の明ありといえます。
わが芝山町では居合台貝塚遺跡から、丸石・石棒・石皿(多孔石)・鍔付土器というセットで出土しています。千葉県ではこの組み合わせらしく、時期も繩文時代中期末(今から4000年前)が多いようです。今のところ成田市や芝山町など北総台地で発見が相次いでおり、分布の中心になる可能性があります。祭に使った道具がセットで出土するということは、「祭のかたち」そのものが伝わったといえるでしょう。
◇ムラとムラをつなぐ祭◇
繩文時代のムラとムラは祭によってつながっていることがありました。今回のお話でそのあたりが少しでも理解していただけたら光栄です。
成田市雉子ヶ原遺跡 第100号住居跡の祭の道具一式(報告書を改図転載)
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■埴輪からかいま見た古代
―円筒埴輪の意味―
千葉県には、12,748基の古墳がある。(平成2年千葉県教育委員会調査による)
その内訳は、前方後円墳は、644基、円墳7,015基、横穴4,129基などであるが埴輪を伴う古墳は、わずかに250基位しかなく、しかも形象埴輪を伴うものはその中でもきわめてまれである。
埴輪を考える時には、まず、円筒埴輪の形式、成整形、編年などのあらゆる角度から研究しつくす事がまず必要であることは、前回にも少し触れた。つまり、考古学の研究方法が帰納法であり、実証的であるとするならば、必然的に埴輪では一番出土数が多く、かつ埴輪成立の最初から最後まで継続的に樹立された円筒埴輪を研究する事は、当然である。
円筒埴輪は、下が細く、上がやや広がった円柱状で、2段から数段の粘土紐のたがの様な突(凸)帯がつけられ、円形または方形や三角形に数カ所穴があけられ、表面はハケ(※1)が付けられている。そして、器台から変化、形象化したものと、壺から形象化したものがあることも前回述べた。
円筒埴輪を幾重にも列をなして並べ、玉垣や柴垣の様に境を隔て、囲繞して聖なる空間を作りだしたのである。首長権の継承をともなう葬送儀礼としての古墳祭祀には欠かせぬ飾り物としての埴輪の研究は緒に就いたばかりである。
(※1)
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