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■古代庶民の残した文字
谷 旬(友の会会員)
みなさん、はじめまして。私はこの芝山が大好きなひとりです。というのも昭和43年の夏、大学の合宿で小池の公民館に寝泊まりさせていただき、芝山中のそばで発掘をしました。その際、ご近所の方に炊出ししていただいたり、貰い湯に行きスイカをご馳走になったり、いま考えても楽しい思い出ばかりです。そんなことも一因してか、おとなりの富里に居を構えることになり、はや10年になります。
前置きが長くなりましたが、今日は奈良・平安時代の総の国の庶民が土器に書き残した文字についてお話をさせていただきます。
◇文字を書いた人々◇
去年の11月にこの館で「山武郡の古代文字」という企画展をご覧になりましたか。われわれにとってはのどから手のでるような素晴らしい企画ですが、それ以上に千数百年前の多くの人々がこれほどまでに立派な字を書いていたことに感動しました。
律令制社会では、郷戸主クラスの師弟が中央の官庁に出向き、舎人などの令史という下級官人として雑役に付いていました。かれらは租庸調(現物納の税)の受取りなどの帳簿や荷札書きといった仕事に従事し、3年ほどで郷里に帰ります。当時の位は正一位から少初位下まで30階位もあって上総の少初位の人が就職嘆願書を中央に書き送っています。このように最も身分の低いたくさんの人々までが筆を取っていたわけです。
◇氏名と地名◇
古代の人々は「部」と呼ばれる集団に属すのが一般的で、たとえば物部などが有名です。房総には「丈部(ハセツカベ)」姓が広く分布し、土器に墨書されることがしばしばです。また平城京から見つかる木簡(荷札など)には、安房国から調として大量のあわびが日下部、額田部、私部、矢作部、矢田部、大伴部、卜部さん達から送られてきたことが書いてあります。さらに佐原市吉原三王遺跡には占部、真髪都、中臣さんが同居していたようです。名前については申万呂、牛麻呂などマロが流行だったことが窺え、女性は刀自(トジ)で総称し、名を表しませんでした。
いまの山武郡は古代「山邊」と「武射」郡に由来し、大網白里や成東の真行寺廃寺から出土しています。そのほかにも吉原三王では香取郡大抔郷や吉原大畠、八千代市からは村神郷といった文字が書かれており、栄町の龍角寺出土の瓦には焼く前に服止乃(羽鳥)朝布(麻生)加刀利(香取)など進上した村の名がヘラ書されています。古代の地名が現在に受け継がれている事実に驚かされます。
◇なんのために書いたのか◇
ほかにも「厨・庁・家・門」などその所属を表しているような文字もありますが、図の1・3例などをみると「承和五年二月十口」「丈部真次召カ代国神奉」の文とともに髭面の顔が描かれ、祭事のために用いた器物であることが解ります。このように神仏に関わるものが結構多いようです。
地下に眠るこうした遺物は、今後も古代のロマンを私たちに与え続けてくれるでしょう。
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■埴輪からかいま見た古代
―埴輪の起源 その2―
埴輪というと、武人や巫女などを表した人物埴輪や鹿や馬、猪などを表した動物埴輪などの形象埴輪を思い浮かべられると思うが、実は、円筒埴輪が埴輪を考える上では、最も重要であり、本流なのである。埴輪の起源は、吉備(岡山県)や、大阪、奈良(大和)で、弥生時代後期の墳墓に供献されていた特殊な形をした壺や器台である。埋葬された主体部を囲むように、底に穴のあけられた壺や甕、それをのせる器台といわれる台状の土器が置かれている。
又、境界を示すかのように、玉垣の様に一列に並べられたりもしている。この風習は、4世紀に始まる古墳における埴輪配置にも受け継がれ、何重にも整然と円筒埴輪が巡り、底部穿孔の土器が主体部付近で検出される。
古墳に葬られた王を中心に、食物を盛った土器(ただし、底に穴をあけることによって、1回性の特殊な土器)、墓のまわりに越えがたく、登りにくい周溝や堤を巡らせ、円筒埴輪を樹立させる事によって、聖域を守り、なに人をも入り込ませない遮りの心情は、古代人の王への気持ちと悲しみを示している様に思われる。
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