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■芝山町の縄文時代晩期
友の会会員 戸村正己
◇晩期とは◇
約1万年の長きにわたる繩文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に大別されています。その繩文時代の終焉を飾り、稲作耕作が始められた弥生時代への過渡期にあたるのが晩期です。(今から約3000年前)
関東地方全般の現象として、最も遺跡が増加した中期、後期に比べて、遺跡の数が著しく減少するのがこの時期と考えられています。
芝山町においては、中期21遺跡、後期23遺跡(町史記載より)、晩期の遺跡は18遺跡の確認があります。(高谷川流域14遺跡、木戸川流域4遺跡)数字の上からは中期、後期と大差がありませんが、しかし、その内容は3〜4遺跡を除いては比較的小規模であることからほぼ関東地方全般の現象に順じた内容を示しているように思われます。このような現象の要因と考えられている事の一つに、自然環境の変化による狩猟、漁労、採集の行き詰まりの結果であるとする説がありますが、今一つ釈然としないものであり、今後に残された課題であります。
◇土器の変遷◇
土器の面から見ると、前半期は後期の伝統を持つ関東的な要素を基に、東北地方の亀ケ岡文化の影響を受けて生まれたものや、独自に発展させた地方色の濃い土器があり、後半期には、東北や中部、東海地方の文化の影響を受けて生まれた土器があります。全般として、器厚も薄く一段と精巧になり、様々な器形も生まれています。土器編年は、安行IIIa式から始まり、続いて安行IIIb式(姥山II式)、安行IIIc式、前浦式、千網式、荒海式という順で展開しました。
一方、土器の他に土版、岩版、土偶、石棒、石剣といった呪術的な用途に用いたとみられる道具や、耳飾りなどの装飾品も数多く作られました。ちなみに、高谷川遺跡出土の「漆塗櫛(※1)」は朱と黒の漆で飾られた該期所産の優品と言えるものです。
◇芝山町の晩期◇
本町の晩期の実態は大まかなところ、約半数の8遺跡で初期の安行IIIa式期に営みが始められ、そして、断続的ながらも最終末段階の荒海式期までの営みが4遺跡に見られるものです。
その中で、一定の規模を有する遺跡としては居合台遺跡(大台)、小池台遺跡(小池)、境遺跡(境)、高谷川遺跡(高谷・殿部田)等が挙げられますが、これらの遺跡のほとんどは後期より継続的な営みが認められる内容であり、本町における中心的な遺跡と見る事ができます。
◇栗山川流域の晩期遺跡◇
なお、芝山町の遺跡を含め周辺地域に目を向けてみると、横芝町には、晩期土器形式の標準遺跡である山武姥山貝塚をはじめ、牛熊貝塚などがあり、多古町には、桜宮遺跡、島遺跡、六所遺跡、龍ケ台遺跡など、八日市場市には多古田遺跡、久方貝塚、天神遺跡、茂左衛門貝塚等など当該期の主要な遺跡が多くあります。
また、このような台地上の遺跡に加え、高谷川遺跡のような低湿地遺跡も栗山川流域にいくつか存在しています。晩期全体の流れとして確かに遺跡減少傾向は否めないところでありますが上記の遺跡状況から見て、当地域においては一概に、“著しい遺跡減少”とは言い難い生活基盤が、少なからず確立していたように思えます。
しかしながら、西日本から農耕文化(弥生文化)の波が確実に押し寄せ、この時期を最後に繩文時代は幕を閉じたのです。
晩期中葉 前浦式土器分布図
粕谷 1990、12『フィールド考古足あと』No.7
房総における繩文時代後、晩期についてより
※1
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■埴輪からかいま見た古代
―相撲―
ここ数年、満員御礼が続き、棧敷の切符が手に入らないほど人気の大相撲であるが、『日本書紀』垂仁天皇の7年秋7月7日の条に当麻蹶足(たいまのけはや)と野見宿彌(のみのすくね)が天皇の前で力比べをした記述がある。これが天覧相撲の起源といわれているが、その旧跡とも言われる野見宿彌神社と「国技相撲発祥之遺跡土俵」の土俵と標柱が、桜井市山辺道沿い穴師にある。又、當麻町には、近年「當麻町相撲館(けはや座)」というりっぱな博物館も建てられている。
古墳時代すでに相撲がとられていた事は、須恵器の装飾部分に相撲をとっている人物が付けられている事や埴輪に相撲の様子を形どった物があることからわかるが、埴輪では、埼玉県行田市酒巻14号墳、和歌山市井辺八幡山古墳など6例の出土が知られる。
ふんどしを締め、片手をあげてしこを踏んでいるような格好をしたり、後ろ鉢巻きをした埴輪もあり、古代の相撲が、葬送儀礼や農業に関係のある豊穣儀礼の行事との説があるが、出土例が少ないので何ともいえない。
野見宿彌といえば、館報No.1で紹介した埴輪起源説話に出てくる人物であるが、カの神様と学問の神様(菅原道真は、野見宿彌の子孫)が同じ土師氏一族なのもおもしろい。
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