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かんぽう武射 No.10 ◎平成7年3月20日発行
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■芝山町の弥生時代
友の会会員 戸村正己
◇菱田平通寺遺跡出土時代の印象◇
一般的に弥生時代のイメージは、繩文時代と比ベソフトな印象が持たれるようです。それは、響きが弥生=桜や草木の萌える季節の印象と重なってとらえられたり、弥生式土器は、男性的ともいえる繩文式土器に対して、文様がおとなしく器形も曲線的で女性のしなやかさを連想させるからでしょうか。
弥生時代一それは、長く続いた狩猟、漁労、採集の繩文時代の暮らしに、新たに大陸からの文化を受け入れて、コメ作りや、金属器(青銅・鉄)を使い始めた時代です。それは、今からおよそ2400年ほど前にはじまり、約600年間続いた時代をいい、古い順から前期、中期、後期の3期に区分されています。
弥生時代の呼び名は、明治17年に東京都文京区弥生町で発見された一個の壺から、発見場所の地名にちなみ名付けられたものです。
弥生時代の遺跡では特に登呂遺跡(静岡県)がよく知られていますが、近年では、吉野ケ里遺跡(佐賀県)が発見され、邪馬台国論争のからみで一躍有名になりました。
◇芝山の地では◇
それでは、芝山町におけるこの時代の様子はどうであったのでしょうか。
これまで、同時代の遺跡は周辺地域を含めて見た場合でも、他の時代の遺跡に比べてあまりに少なく、ほんの数例が確認されていただけの状態でありました。その為に、詳しい内容はよくわからないというのが実情であります。
しかしながら、近年、開発に伴った発掘調査や踏査で、研究の入り口にようやく手が届くほどになってきました。昭和59年に調査された遠野台・長津遺跡(大里)は、住居跡(14軒)に伴って土器や石器が出土し、これまでにない貴重な情報を提供してくれました。こうしたことから、おぼろげながらわかってきたことは、遺跡は、ほぼ芝山町を流れる二つの川(高谷川・木戸川)に沿って存在し、現段階で、高谷川流域17遺跡、木戸川流域で5遺跡の併せて22遺跡の確認があります。
これらの遺跡のほとんどは、現在の水田を見下ろすように突き出した台地の上に営まれております。特に高谷川沿いには遺跡が多く確認されていますが、これは、浸食によってできた台地が多くあり、立地条件に適っていたためと思われます。
遺跡の時期の大半は後期のものが多く、比較的小規模な内容を示しています。中期に営まれた遺跡は継続的に後期まで営まれ、ある程度規模もあり、この芝山地域の中心的な集落であったことが考えられます。その1つは高谷川に面した遠野台・長津遺跡(富里ゴルフ場)であり、もう1つは、木戸川沿いの三田遺跡(芝山文化センター及びその周辺)です。
◇イメージ、その実態◇
新しい文化が初めて北九州に根をおろしたころ、芝山を含む千葉県においては、まだ繩文時代でした。しかし、その後さまざまの形で文化が入り、序々に弥生文化が浸透してきたものと思われます。芝山の地に根が降ろされたのは中期の中頃あたりと考えられます。
本町の出土品には見られませんが、この時代は大きく言えば、確かにコメ作りなど新たな文化が入り、時代の変革になったことと思いますが、しかし、農具が作られた一方で武器なども作られ、ソフトなイメージとは裏腹に、小さな国どうしの争いや耕地をめぐっての争いがにわかに増えた時代でもあったのです。
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■埴輪からかいま見た古代
―猪―
今年は、亥年というわけで猪の話を書きましよう。
亥年生まれの人は全人口の8.3%10,041万人いるそうで、ベビーブームの昭和22年生まれは234万人もいるそうです。
動物埴輪では、飾り馬が最も出土例が多いと前述しましたが、館報8号で犬の埴輪と共に猪の埴輪が出土することが多く、狩猟の様子を表現したものと書きました。大阪府昼神車塚古墳などは、猪のまわりに犬と狩人と思われる人物が出土して、狩猟の情景を示した好例と言えます。東国では福島県天王壇古墳や、群馬県保渡田八幡塚古墳なども同じ様な埴輪配置で、この事から猟犬をつかった狩が一般に行われていた事がわかります。我孫子市出土と伝えられる猪などは背中に弓矢が突き刺さった状態を表現しています。
また、狩人の腰に子どもの猪と思われる小さな猪を下げている埴輪も見かけます。最近の研究では、弥生時代に家畜としての豚がいた事がわかりましたが、古墳時代には、子どもの猪を捕まえて育てていた事もあったのでしょう。
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