山武郡地域と芝山の古墳
山武郡一帯は「武社(むさ)の国」に属していたらしい。ここには、主な河川として同郡の東北部に位置する高谷川(横芝町)より、南西方向に向かって木戸川・境川・作田川(成東町)の4つの流域がある。共に北総東部台地に水源を生じ、谷津部を東に向かって流れ九十九里岸の沖積平野を通過して太平洋に注いでいる。本地域には前方後円墳69基と円墳・方墳などを含めて計806基の古墳が営まれている。この中から規模の大きさをうかがって上位3例の古墳を次に紹介することにしょう。
全長117mの大堤権現塚(おおづつみごんげんづか)古墳
木戸川流域にあり、松尾町大堤地区に営まれている。終末期の前方後円墳としては県内最大の規模で、盾形の三重周溝をもっている。埋葬施設は、後円部のかなり高い南側位置に設けられた横穴式石室である。同石室は軟質砂岩の切石で構築された全長9mの両袖型の複室構造で、奥室の右側壁に造り付けの箱式石室が設けられその内部からは、頭椎(かぶつち)大刀・圭頭(けいとう)大刀・金銅製刀子鞘(さや)・鉄鏃・金環・金銅製耳飾り・ヒスイ製勾玉・管玉・水晶切子玉などの副葬品が出土している。7世紀前半の築造と考えられる。
全長90mの西ノ台古墳(板附14号墳)
作田川流域にあり、成東町板附地区に営まれた前方後円墳で二重の周溝をもっている。埋葬施設は、墳丘主軸の中点にあたる括れ部の北側に設けられた横穴式石室である。平成2年に国立歴史民俗博物館によって確認調杳が実施され、墳丘中より円筒埴輪と形象埴輪(家形・馬形・人物)が検出され、その結果から6世紀後半代に築造されたであろうことが推定される。
全長86mの殿塚古墳(中台6号墳)
木戸川流域にあり、横芝町中台地区に営まれた前方後円墳で長方形の二重周溝をもっている。埋葬施設は、後円部の南側に設けられた横穴式石室である。同石室は軟質砂岩の切石で構築された両袖型の複室構造である。その内部からは、頭椎大刀・鉄刀・刀子・鉄鏃・?具・金環・金銅鈴・大型勾玉・玉類などの副葬品が出土している。また、墳丘中より円筒・形象埴輪列が発見されている。特に形象埴輪列の存在は学術的に注目されている。6世紀末葉の築造と考えられる。また、境川流域の山武町麻生新田地区に営まれていた胡麻手台(ごまてだい)16号墳も、全長86mの前方後円墳であることが、平成6年の千葉県文化財センターによる調査によって明らかにされている。
上述の古墳はいずれも前方後円墳である。円墳や方墳の中からも、最大規模を有する古墳を各1例ほど次に紹介しょう。
径85mの松尾姫塚(大塚1号墳)
木戸川流域にあり、松尾町引越地区に営まれている。この規模は県下最大の円墳で、終末期頃の築造と考えられており、その存在はとても興味深いものがある。
一辺60mの駄(だ)ノ塚(づか)古墳(板附4号墳)
作田川流域にあり、成東町板附地区に営まれている。三段築成の方墳で、複室構造の横穴式石室からは金銅製歩揺(ほよう)付飾金具などの馬具類が出土し、7世紀初頭の築造と考えられている。
東国経営と山武郡地域の大型前方後円墳
さて、以上の概要から山武郡地方に営まれた大型古墳の規模や埋葬施設そして出土遺物などの様子が少しうかがえたものと思う。因みにですが、当地方での大型古墳の出現は6世紀後半代になって顕著になっている。この時期に中央政権による東国経営の拠点を確保するための積極的な浸透が図られ、新来集団の活躍が始まった証であろうと考えたい。そして、7世紀前半の大堤権現塚古墳築造に至り、郡域全体を統一する地域政権の誕生が推察される。しかし、既に前方後円墳の築造は全国的な規模で終焉する瀬戸際の時期であった。このことから、図らずも大堤権現塚古墳は房総における終末期の大型前方後円墳の存在となっている。代わって登場するのが駄ノ塚古墳である。この方墳の性格については、国造の支配領域を単位にして出現している可能性も考慮されており、「武社の国」との関わりが興味深く注目される。
九十九里地方の古墳群
貴重な前期古墳の発見
ところで最近、作田川流域に営まれた北野遺跡5号墳より重圏紋倭鏡(わきょう)(4世紀前半頃)が発見された。また、境川流域に営まれた島戸境1号墳より銅鏡4面(4世紀後半頃)が発見されるなど、前期古墳の存在がにわかにクローズアップされる様子となっている。そして、殿塚古墳や西ノ台古墳の築造が契機となった6世紀後半に古墳文化の著しい台頭があったとされる従来までの研究の経緯が、先の両古墳の出現によって再構成を迫られる状況となっている。
(つづく)
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